Walking on the street-585

桜が開花したのは知っているが、まだ花見はしていない。低堕落な本心からすれば、毎昼間、毎晩に花見と洒落込みたいが、そんなことをしていれば勤め先にも家族にも愛想をつかされ困ったことになるだろう。それにこれでも、それでは花見の本当のありがたさを味わうことは出来ないだろうということは分かっている。

ボクの趣味は読書と食べ歩きである。その読書の方は置いておいて、食べ歩きの方は金がかかるから、毎昼間毎晩そんなマネを繰り返す訳にはいかない。花見同様にありがた味が薄れていくことと比例して、身銭も減っていく。それでは日常の暮らしに不具合が生ずる。具体的にいうと、二十歳を越した大学生の娘と、高校受験を控えた息子を持った、それほど稼ぎのある訳でもない父親が、どういう状況に置かれて暮らしているのかということは、今この国が抱えている
「うつ病と自殺」
の増加。その他のことをひとまとめに言ってしまえば
「ボクたちの暮らしは貧しい」
に、小計することが出来る。
ボクは食べ歩きが趣味だと書いたが、そんなマネを常に出来る暮らしはしていない。
だからテレビで、これまで大好きだったラーメン特集番組なぞを放送していても、見る気もしない。どうせ行けもしないのだから、という気が先に立ってしまう。勝手にしてくれ、という感じにしかおもえない。まあそれで良い。

それで、ボクの暮らしは貧しい。それは自衛で解決して毎日を暮らそうとしている。しかしながら皆さんの懐がどういうことになっているのかボクは知らないけれども、身銭の問題よりももっと精神の部分で貧しくなっているのではないかと、公共の交通機関などをここ一年以上利用していると、感じる。
「下りる人がいまあす」
と、ボクが満員電車の奧から叫べばその瞬間、ボクは変人と見なされる。それでも車内の奧からその駅に下りたい人はいるのである。駅のホームの駅員さんたちはどこの駅でも
「下りる方のために、一度車外に出て、道をお作り下さい」
そういうアナウンスは必要だとおもうけれども、実際に車内にいると、辺りにおもいを馳せている客などいないのである。


ボクが中学一年生のときに手にした、ジョン・レノンが1970年に発表したアルバム
「プラスティック・オノ・バンド/ジョンの魂」
のジャケットに巻かれていた帯には
「個からマスへ」
という、当時の東芝EMIスタッフがそのアルバムに賭けたキャッチ・コピーの言葉が踊っていた。当時そんな年齢だったボクは唸ったものである。
「へー、個からマスかあ」


ご批判を覚悟で書くが、マスを社会として、個を個人とすれば
「みんなが個、つまり点に帰っちまってるんだあ」
ということがいえるとおもう。


ボクはそのことを当時の高校生気分と同じレベルで批判するのではない。
ただ
「せっかく個からマスに移行したのにね」
とおもっているだけだ。
これは、喫煙者の不自由さとかそんなレベルの話しではなくて、もっと精神上の話しである。


マスが何でもしてくれるとおもっている、とおもっていると、すべては個に戻ってしまう。そうすとその個は
「だって私がうまく生きていけないのは、全部そのマスのせいなのよおお」
になってしまう。
ボクは新しい総理大臣も新しい官僚も誰も信じないけれど、ジョンが歌っていたレコードの記録は、信じているのである。

「俺はエルビスなんか信じないぜ」

ジョンはそんなことを言っていたけれども、
ボクも、最近の実になる話しは何も知らないのである。
だけど、こういうことを持って何が民主主義だと疑問におもう。

「総理大臣なんて信じないぜ」

と叫んでやる。

「おおい、アンタを助けてくれる人なんか、どこにもいないんだぜえ」

実際には助けてくれる人はいるけれども、まるでボクたちが暮らしているのは民主主義国家ではなくて共産国である。若い人には分からないかも知れないが、それで良いのかって話しだ。

「考えてみろよ。昔は今に比べたら、これだけ不自由におもわれるのに、あんだけ自由だったんだぜ。そのことにおもいが及ぶかい」

たいていの奴らは、耳に線を突っ込んで知らん顔さ。










レッド・ツェッペリン
「胸一杯の愛を」
http://www.youtube.com/watch?v=UWvrRgIuo2A














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