Music from our house-7

三田に「二郎ラーメン」があったからそのついでに「OUR HOUSE」に通ったのでも、その逆でもない。両者は別個の文化としてたまたまその同じ町にあっただけで、ボクたちは「二郎ラーメン」に行くときにはそのラーメンを食べるためだけに三田に出かけ、「OUR HOUSE」に行くときにはバンドのために出かけた。近所の人たちが不良とレッテルを貼るエレキ・ギターを背負ってである。

ボクが初めてP太郎に連れていかれたとおもっている二郎ラーメンに、当時まだ行列はなかった。1980年のことだ。
初めて食べたそのラーメンは、ともかく強烈だった。麺はそれまで味わったこともない太さでスープはブタ臭い。それは、今やすっかり浸透している豚骨しょうゆ味の先駆けというよりも、先駆けをも通り越したキワモノだったといっていい。具はキャベツを中心にした野菜と、ただのラーメンにも遠慮なく放り込まれるブタ片で、ニンニクは好みによって投入加減を選択出来たが、入れてもらった方が断然旨い。
そういうモノを初めて食べたボクはまず
「もう二度と来ない」
と叫んだ。その日はいつまでも満腹感がとれず、夕飯も食べられないほどだった。

二三日にして、またそのラーメンが食べたくなったからボクは都営浅草線に乗って三田に出かけ、まだ行列のない二郎ラーメンを食べた。食べ終わってまた
「もう二度と来ない」
と心の中でおもった。

そういうことを三度か四度続けている内に、これはただのラーメンではないぞ、とおもい始めた。ボクがそうおもい始めた時期から、二郎には行列が出来るようになった。店内のカウンターは十四席あったから、待ってもそれほどのことでもなかったが、次第に近所の慶応の学生が群をなしてくるようになってから、その待ち時間は四五十分に伸びていった。

ボクが通う青物横丁にあるY高校からも、二郎の常連は増えていった。二郎は十一時過ぎに店を開けて、自家製の麺がなくなってしまう三時か四時には店を閉めてしまうので、高校生がそのラーメンを食べるには学校を中抜けするしかなかった。ボクは進級という面で絶望的だったから居直っていたが、それにしても大勢の連中が授業をサボって、誰かに代返を頼んだりしながら出かけていた。

ボクたちが二郎ラーメンが好きだったのはその味だけではなかった。そのラーメンを出してくれる店の、ボクたちはおじさんとおばちゃんと呼んでいたが、その人たちの店構えが好きだった。

ボクがP太郎に初めて連れていかれたとおもっていたころの二郎はガラガラだったが、行列が出来始めて店が忙しくなったおじさんとおばちゃんは、店のカウンターに硬貨をジャラっと並べてボクたちに
「つりは勝手に持っていってくれ」
と言った。ボクたちは
「良いんですか」
と頭を並べて言ったが、おじさんもおばちゃんも客一人一人と勘定をしているヒマもないくらいに忙しいのがすぐに分かったので、ボクたちは仮に当時二百三十円のただのラーメンを食べたとして、勘定に五百円札札を出すときには、その札を空いたドンブリの底にはさんで
「二百七十円もらっていきます」
と言ってカウンターからそのつりをもらって帰った。
そうするとおじさんもおばさんも、目だけは店を出ていく客に向けて
「ありがとうなあ」
とか
「ありがとうございます」
と言ってもらえるのが、ボクたち客も嬉しかった。そうしておばちゃんは、よくガクラン姿のまま店にやって来る客に
「ちゃんと学校に行かなきゃ駄目」
と、ラーメンを差し出してくれながら小声で言っていた。

その二郎ラーメンは区画整理のため、今は当時とは違う、桜田通りの慶応大学正門を過ぎたところにある。何年か前、その二郎に行ってみたことがある。たいへんな行列だった。そうして頼んだ「小ブタ・ヤサイ・ニンニク・カラメ」をボクはスープまで飲めなかった。高校時代ボクはその二郎で「大ブタ・ヤサイ・ニンニク・カラメ」をいつも完食していたものだ。

「OUR HOUSE」は、ボクが知る限りいつも、二郎ラーメンを通り過ぎたところにある。






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